子どもの頃の私
HSPについて知ったとき、ストンと胸に落ちるように納得できたのは、子どもの頃のとある記憶。私はペットショップが大の苦手であった。
動物が嫌いというわけではなかった。祖父母の家で飼っていた中型犬には好んで会いに行ったし、近所の工事会社で飼っていたレトリーバーの頭もよく撫でた。動物園も、大好きとまではいかないが、好きな方だったと思う。決して、「嫌だ。絶対に行きたくない。」と駄々をこねることはなかった。
しかし、ペットショップについては、「大嫌い。行きたくない。」とはっきり断言していた。犬好きの父は、悪気なく、何度か私をペットショップコーナーに連れていこうとして、そして私に泣きながら拒絶された。「なぜ嫌なのか。」たぶん、何度か訊かれたと思う。でも、当時の私は、そこに明確な答えをもっていなかった。ただ、行きたくない。見たくない。私にとって、嫌な場所。
大人になって、HSPについて知ったとき、私の中に明確な答えが見えてきた。
「命に値段を付けるということが嫌。」
たったこれだけ。でも、私にとっては大きなこと。
はじめは、「檻の中にいるから可哀相。」と感じていたのかと思った。でも、野生には野生の、動物園には動物園の、家庭には家庭の幸せがあり苦労があることは子どもながらに理解していた。理由がわからないまま大人になって、ペットショップも「好んでは行かないが、なんとか行ける」というレベルまでになった。そして今、幼い私の感情の理由をはっきりと言葉で理解した私は、他のお客と同様に、ペットショップの覗くことができる。幼かった自分と同じように、今でも命に値段をつけることには抵抗がある。でも、大人になって、いろいろなことを知って、それで世界が回っているということを知ったから。「これも世の中の一つ」と割り切って見ることができているのかもしれない。
2021/01/15